電話占いの今後の動き
経済が過熱することを阻むべく、高金利政策をとってカネを借りにくくするのである。
いうまでもなく、これがすなわち金融引き締め政策である。
実際に、一九七○年代末には、アメリカの短期市場金利は二桁レベルが当たり前という状況になっていた。
一九六○年代を通じては、せいぜい四%弱というのが金利に関する人々の「相場観」であったから、ニクソン・ショックを境にアメリカの金融環境はまさに一変したのである。
ところが、一向に変わらないものが一つだけあった。
それは銀行の預金金利である。
当時の預金金利には、法的な上限規制が設けられていた。
その根拠法が一九三三年銀行法、いわゆるグラス・スティーガル法である。
この法律については、前で既に触れた。
投資銀行業務と商業銀行業務の兼業を禁止した法律である。
それと同時に、同法は金利についても二つの規制を設定していた。
要求払い預金に関する付利禁止規定と、定期性預金に関する上限規制である。
なぜ我々はここにいるのか規制の理由は上記の兼業規制と同様だ。
一九二九年恐慌に至る過程で、アメリカの商業銀行たちは見境のない高金利で預金をかき集め、それをまた超高利で貸し出すというやり方に逼進していた。
結局はこの高利貸し商法が行き詰まって多くの商業銀行が破綻し、彼らの破綻が恐慌の深化を招くという顛末をたどったのである。
二度とこの道に踏み込むまいという決意が、グラス・スティーガル法の預金金利上限規制として結実したわけである。
より正確にいえば、この法律によってFRBに定期性預金金利の上限規制権限が与えられた。
これを受けた連邦準備制度法上の「レギュレーションQ」によって、FRBは定期性預金に関する過度な金利競争が起きないよう、その時々の情勢に応じて上限金利を設定したのである。
貯蓄から投資へこのように、当時の預金金利規制は、過去の過ちに対する深い反省から生まれた政策対応であった。
その限りにおいて、その見識を疑問視する筋合いはない。
ところが、二桁インフレが二桁金利を必然化するニクソン・ショック後の経済環境の中では、皮肉にも、この見識がかえって災いをもたらす結果となってしまった。
なぜなら、世の中一般の金利水準がどんどん上がる一方で、預金金利だけが上限を法的に抑え込まれていれば、資金の流れに大きな変調が生じるからである。
端的にいえば、銀行に資金が集まらなくなるという預金金利が据え置かれているのに、その一方で、例えば証券会社が提供する投資信託商品や、国債・社債などの利回りはどんどん上がるということになれば、当然ながら、誰も銀行にはカネを預けたくなくなる。
むろん、預貯金は低リスク商品だから、冒険を嫌う人々をつなぎ止めておくことは出来る。
だが、そうした気の弱い投資家を除けば、やはり多くの人々が預貯金から自由金利商品への乗り換えを進めた。
高インフレ・高金利の金融環境が、人々を「貯蓄から投資へ」の行動へと駆り立てたわけである。
かくして、ドルの金交換というタガがはずれたインフレ経済の下で、全米の商業銀行たちは大量の預金流出に見舞われることになった。
このことは、むろん、銀行業界にとって存立基盤を揺るがす大問題だったが、それにもまして大きな問題だったのが信用創造の行き詰まりであった。
銀行にカネが集まらなければ、銀行はカネを貸せない。
銀行がカネを貸せなければ、借金に依存した企業経営は行き詰まる。
そうして多くの企業たちが経営難に陥れば、経済活動全体が立ち行かなくなる。
要は、金融仲介という銀行の最も基本的な機能が麻揮状態に陥りかねない状況となったのである。
この現象を「ディスインターミディエイションという。
インターミディエイションは仲介の意だ。
それが出来なくなるから、ディスインターミディエイションである。
金利自由化へそもそも預金金利規制は、金融システムの安定保持のために導入された措置であった。
ところが、一九七○年代の経済金融環境の下では、この規制があるばかりに預金流出が発生し、かえって金融システムの不安定化を招く展開となったのである。
こうなってくれば、対応は一つしかない。
預金金利に関する上限規制の撤廃、すなわち預金金利の自由化しか方策はなかったのである。
かくして、アメリカの金融行政は金利自由化に向かつて大きく舵を切り替えることとなる。
なお、この時期に金利自由化への圧力が高まったことについては、側面からの後押し要因も二つあった。
いずれも、ニクソン・ショック後の高インフレ・高金利化から派生した展開である。
その一が一九七○年代半ばから進んだ証券市場改革、なかんずく、証券委託手数料の自由化である。
そして、その二が一九七九年に導入されたFRBの新金融調節方式だ。
当時のFRB議長、ポール・ボルカー氏にちなんで「ボルカー・ショック」と呼ばれるようになった金融政策上の大変革である。
順にみていこう。
証券会社への手数料である証券委託手数料の自由化は、一九六○年代末から議論されていたテーマだが、高金利化に伴う金融・証券分野の競争激化で一段とその気運が高まることになった。
それを受けて、一九七五年五月のいわゆる「メーデー改革」で全面自由化が実現される運びとなったものである。
その結果、証券会社間の激烈な手数料引き下げ競争が巻き起こったことはいうまでもない。
同時に、手数料戦争の泥沼から脱却すべく、新商品開発にもかつてないほどの力が注がれるようになった。
その中で生まれた個人投資家向け高金利商品のおかげで、商業銀行はますます激しい預金流出に見舞われることになり、ディスインターミディエイションも一段と深刻化した。
これが預金金利の自由化を促す要因として強く働いたのは当然の成り行きだった。
特に大口預金金利に関する自由化促進材料として、大きな役割を果たした。
次いで、第二の新金融調節方式についてみておこう。
ボルカー議長は、ニクソン・ショック以来のインフレが一向に収まらない中で一九七九年八月に着任した。
着任後、二カ月以上の経緯を経て、一九八○年三月に「一九八○年預金金融機関規制緩和・通貨管理と経たない一○月六日、新任議長は金融政策の政策目標を金利から通貨供給量に切り替えた。
金利水準を一定範囲に誘導するという従来型のやり方では、通貨膨張、すなわちカネが出回り過ぎることによるインフレを抑えることは出来ない。
そう判断したボルカー議長は、直接的に通貨供給量そのものをコントロールする手法を導入したのである。
一方で、金利は野放しにした。
結果は、当然ながら金利大急騰である。
市中に出回るカネの量を絞れば、カネの値段である金利は上がる。
量を劇的に絞りながら値段の上昇を放置したのであるから、金利が急騰するのは当たり前であった。
こうして市中金利について事実上の青天井宣言を発しながら、預金金利だけに上限規制を課し続けるというのは、どう考えてもつじつまが合わない。
政策がみずからの手でディスインターミディエイションを煽るようなものである。
その意味で、新金融調節方式の導入は、事実上、最終的な預金金利規制撤廃宣言の役割を合わせもっていた。
法」(通称一九八○年金融制度改革法)が成立した。
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